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対談内容



中川雅仁の巻頭対談いい人いい話いい氣づき
2004年12月の対談

 
中川 雅仁 ユンキ(本名・田内基)さん
(なかがわ まさと)
1961年、北海道生まれ。北海道大学工学部卒。(株)エス・エー・エス会長。全国各地で真氣光と呼ばれる氣を通して意識改革に精力的に取り組んでいるほか、奈良県生駒市にて意識改革を目的にした合宿『真氣光研修講座』を開催し、好評を博している。著書に『こんな癒しがあった!』(文芸社)などがある。
1942年、韓国木浦市で生まれる。1968年、木浦共生園園長に就任。以来、木浦・ソウル・済州島と堺・大阪・神戸などの地域に14の施設をつくる国際ソーシャルワーカーとして活躍中。韓国青少年問題研究所所長、韓国社会福祉士協会会長、ソウル特別市低所得者対策委員などを歴任。日本では「在日韓国老人ホームを作る会」を提唱し、福祉の国際化・文化化・大衆化を推進。現在、「こころの家族」理事長。著書『愛の黙示録(原題・母よ、そして我が子らへ)』(汐文社刊)。『風のとおる道』(中央法規刊)など。



■見えないものを大切にしそこから学ぶ

中川 はじめまして、中川です。今日は快くお引き受けくださいまして有り難うございます。

 送っていただいた会報誌を拝見しました。目に見えないものを大切にしておられる。社会福祉にも関係が深いと思いました。

中川 "氣"は目に見えませんが、確かに存在していて、人の心もそうですね。心の持ち方をプラスに変えていくことで、いい氣も出るのですよ、ということをお伝えするセミナーなども開催しています。実は今日もその4泊5日のセミナーを終えて、こちらにうかがったのですが。

 そういう施設があるのですか。

中川 奈良の生駒に研修所があります。また北海道から沖縄まで8ヶ所にセンターがあります。こちらから一番近いのは、谷町4丁目にある「大阪センター」ですね。

 韓国語には、「知恵」を意味する「(スルキ)」、「特技・得手」を意味する「(チャンキ)」、そして「根気」を意味する「(クンキ)」などがあります。日本にも、「気力、気分、気持ち」など、たくさん「気」のつく言葉がありますね。これは余談ですが、私の名前は「ユン・キ」です。「基」と書きますが、発音は同じ"き"ですね。「ユンキ」にも、潤いやゆとりの意味があります。中川さんとお会いするのも何かのご縁かなと、スタッフとも話していたのです。

中川 私も、よく「ご縁ですね」、と言います。セミナーを受講される方にも、ここに一緒に集まったということは、ご縁があったからだと。尹さんとも、こうしてお目にかかれたご縁を有り難く思います。

 以前に中川さんの会報誌に、私の著書『愛の黙示録』を紹介していただいたのも読みましてね、これはお会いしなければと思いました(編集部注・本誌2002年4月号No・143に掲載)。

中川 私も『愛の黙示録』を読ませていただきましたが、後に映画化されたそうですね。日韓合同映画で韓国による日本の大衆文化解禁第1号となった作品と聞いています。韓国と日本は以前大変不幸な関係がありました。韓国や朝鮮の人々は、辛く苦しい思いをされた方々が大勢いらっしゃる。そういう歴史をふまえて、お互いに理解し合っていくことがとても大切だと思っています。
  お母様が、当時日本が統治していた韓国でキリスト教伝道師のお父様と結婚されて、生涯に3000人の孤児を育てられたそうですね。

 そうです。私の父は韓国人、母は日本人です。私は韓国人だと思っていましたが、日本人なんです。母が一人娘だったので、父が母の戸籍に入ったからです。母の生涯を描いた映画『愛の黙示録』が両国の大衆文化開放のきっかけになりました。民衆レベルで交流し、お互いに理解し合うことが大切だと思っています。

中川 ご両親のことを少しお話しいただけますか。

 母は高知県に生まれました。祖父は朝鮮総督府木浦府に勤めていました。木浦は朝鮮半島の最南端にある港町です。母も7歳から木浦で暮らすようになり、当時は多くの日本人が住んでいて、母は日本人の学校に通いました。父は「木浦共生園」を設立し、街中の孤児を自分の子供のように思って世話する中で、子供たちに笑顔がないから、どなたか音楽を教えてくれるボランティアはいないかと探していました。
  音楽教師だった母が子供たちに音楽を教えるようになったのは1936年です。母は父の生き方に感動し、父と結婚しました。ところが日本は戦争に負け、木浦に住んでいた日本人は皆ひきあげる。その後1950年の朝鮮戦争の時、父は孤児たちの食料を調達に出かけたまま行方不明になったのです。

中川 長い日本の支配から解放されて、反日感情がすごかった韓国で、お父様がいらっしゃらなくなって、日本人のお母様が大変でしたね。

 ひどい貧困の中で、母はただただ孤児のために一生懸命に生きてきました。母は1968年に56歳で亡くなりました。初の木浦市民葬が営まれ、3万人の市民がお葬式に参列しました。この時、木浦市民から『国籍よりも人間を優先する市民精神』を学びました。

■夢を持つこと自立することの大切さ

中川 それで尹さんがお母様の意思を引き継がれ、園長となられたのですね。

 私は25歳でした。「320人の孤児を抱えて、食料が足りない、靴も、鉛筆も、布団も、傘も、服も、何もかも足りない!」という生活の中で、何も出来ない自分の無能力に悩み、夜も眠れませんでした。逃げようと思うほど私は苦しくなっていました。
  ある日の明け方、思い悩んで海辺を散歩して帰ると、灯りのともった講堂である卒園生が「神様、孤児の中で育った尹基こそ、孤児たちの気持ちが一番良く分かる人だということを気づかせてください」と私のために祈っているのを見て驚きました。
  子供の頃、母に反抗しました。彼女の身体から生まれた分身なのに、どうして孤児の中に放り込んで、特別な愛情をくれないのかと。母の目には自分の子供が見えないのかと。孤児の気持ちならわかるような気がしました。

中川 大きな気づきをいただいて、意識が変わられたのですね。そして決心して行動に移された。

 そうです。サッカーチームを作ったり、水泳をしたり、合唱団を作りました。東シナ海に沈む夕日をみながら、子供たちと手をつないで歌っていた時、そこには平和がありました。孤児であることも忘れていました。その時に子供が「オモニ(お母さん)の国に行ってみたい」と言いました。私は母の故郷である高知県の知事に招請状を頼み、溝口知事は招請状を送ってくださいました。また日本航空にも「子供たちを飛行機に乗せてください」とお願いしました。当時の松尾静麿会長が「良いことをひとりでやると憎まれますから、大韓航空といっしょにやりましょう」と良い返事をくださいました。そして1971年、20人の子供たちが半分ずつ日本航空と大韓航空に乗って日本に来たのです。子供たちから、夢を持つ大切さを教えられました。夢は資本金が無くても持てます(笑)。

中川 それは、素晴らしいことですね!不可能だと思われるような子供たちの願いが、本当にかなってしまった。ダメかなと思ってあきらめたら、何も変わりません。行動することによって何かが生まれる。見えない世界からの応援もたくさんあったのでしょう。

 日本の子供たちと音楽交流会を持ちました。東京の若草寮の子供たちと『友達はいいもんだ 目と目でものがいえる困ったときは力をかそう…』という歌を合唱しました。日本にも本当にいい歌があるんだなと思いました。大阪では、博愛社で働いていたある女性に惹かれました。一目ぼれですね。それで、すぐにプロポーズしました。今の家内ですがね。

中川 お母さまも子供たちに歌を教えにいらして、お父様と出会われて結婚なさったのでしたね。そういう経緯が似ていますね。

 真似をしたわけではありませんが、私も日本人と結婚しました。
  共生園の子供たちは18歳になると社会に出ていかなければなりません。また韓国は兵役があって20歳から3年間軍隊に行きます。除隊すると、皆は喜び勇んで家族の待つ家に帰るのに、共生園の卒業生には帰るところがありません。その寂しさで酒を呑み、ケンカ沙汰をおこすのです。毎晩、「園長、出て来い!」と呼び出され、酔っ払いのなだめ役ですよ、私は。ある子が言いました。「途中で捨てるくらいなら、子供のころ死なせてくれればよかったのに」と。それくらい、寂しく、辛いのです。この子供たちの前にある暗い壁をなくし、自分の力で生きられるように、1977年にソウルに少年少女職業訓練施設を作りました。私は「鋼鉄の意志を持って有能な技術者になりましょう。税金の払える市民になりましょう。そして隣人を愛する人になりましょう。」と励ましたのです。
  自分の力で自立できると、他人が見えるんですね。「園長はいつまで福祉をやるつもりですか。与えるばかりではダメだ」なんて言うようになるんですよ(笑)。その子供たちを見て、自立の大切さを痛感し、また子供たちから多くを学びました。

中川 孤児の家を運営なさり、職業訓練施設を作り、今は大阪にお住まいで、ここは在日韓国人高齢者のための施設ですね。どういう経緯で日本に?

 一人娘が小学3年生のとき、「パパ、日本の郵便ポストはどんな形をしているの?」と訊きました。娘は75%は日本人です。日本のことを全く知らないままでいいのだろうかと思いました。
  また、韓国ではトイレに行くのにも私の後をついてきていた家内が、東京では私の前を歩くんですよ。後楽園の駅前の花を見て、「あぁ、綺麗な花が咲いているわ」って言うんです。花ならソウルの街にもっと綺麗なのが咲いていたのに、心のゆとりが無いと、咲いている花の美しさも感じられないのだと気づきました。言葉も不自由な韓国に来て、10年間どんなに不安で孤独な生活をしていたことか。やっぱり私が日本に行って10年ほど住もうと決心しました。

中川 そうだったのですか。心のゆとりが無いと、花の美しさにも気づかない…本当にその通りですね。

■キムチを食べてアリランを歌えるホームを

 島根県に住んでいた遠い親戚の韓国人のお婆さんが、私が日本に来たというので毎晩電話をかけてきました。島根に行ってみたら大変だったので、老人ホームを勧めたら、「日本人ぶりをしていると息が詰まる」って言うんです。また、名古屋に住む在日のお年寄りが亡くなって、13日ぶりに見つかったという新聞記事を目にして、大きなショックを受けました。「日本人は、正直で勤勉で親切なのよ」と聞かされて育った私としては、この日本でこんな孤独な死を迎えるなんてと、当時は理解できませんでした。その時、母のことがオーバーラップしたのです。
  母はチマチョゴリを着て、韓国語を話し、韓国人になりきって生きてきました。わが子を孤児と平等に育てるというのは、第三者にとっては美しい話でも、わが子の立場からすると非常に辛いものがありました。自分の母であっても、母ではない。そういう母を恨んだこともありました。でも、母は闘病生活で、だんだん日本語にかわり、亡くなる前には、「梅干が食べたい…」と言ったのです。母は自分が育った高知が懐かしかっただろうに帰らず、自分は食べなくても子供に食べさせてきたのだ、と心の底から理解して、母に頭が下がりました。このような母の生涯が、私を後押しし、走らせたのです。仲間とオンドルのある部屋に集い、韓国語で心ゆくまで語り合い、笑いあい、キムチを食べてアリランを歌えるホームをつくろうと。

中川 今、高齢者になっておられる韓国の方は、強制的に全く不本意に連れてこられた方も大勢いらっしゃるのですから…。

 現在、63万人の在日がいますが、そのうち9万人が高齢者です。みなさん、福祉は国がするものだと思っていませんか。私が「在日韓国人の老人ホームをつくる会」を発足させたいと言ったとき、誰一人賛成する人はいませんでした。無理なことをするのは止めなさい、と。でも私は、日本人の良心の建設をしたい、と思いました。私はただの一度も、できないという考えを持ったことはありませんでした。私はクリスチャンです。もしこの世でそれが本当に必要ならば可能だろう。神様には不可能なことはないのだから、と。結局、最初は反対していた人もみんな応援してくれるようになりました。私のことを心配し、苦労と失望をさせたくなくて反対していたのです。7千件の寄付が集まり、とうとう15年前にこのホームができたのです。

中川 そうだったのですか。信じることの大切さですね。私の父は特定の宗教を持ってはいませんでしたが、「神を信じ人を愛す」と常々言っていました。そして、その言葉が、私どもの活動の指針となっているのです。

 私たち夫婦は、日本のことは家内が、韓国のことは私がというように、二人あわせて一人前です。ところが韓国では明るい子だった娘が、日本に来てからは遠慮する静かな子になったんです。ときおり私が大きい声で韓国語を話したり、韓国の歌を歌ったりすると、声を潜めて「パパ、ここは日本よ」というのです。娘は海外帰国子女として、イジメの体験もしました。高校1年生のときには、もっと広い世界を体験してもらいたいとカナダに一人旅に出しました。
  その旅行を通して、娘は韓国語と日本語を話せるメリットに気づき、今度は英語を勉強したいと英国に留学しました。英国の教授が「日本は自国の豊かさを追い求めるだけで、世界の痛みをわかっていない。世界にもっと目を向けないと、日本は世界の孤児になってしまう」とおっしゃたのです。
  その言葉に影響を受けて、娘は大学院で福祉を専攻するようになったのですが、韓国にいる姉が、「共生園を引退したい。あとはあなたの娘に園長をやって欲しい」と言ってきました。私は驚いて、「そんなことを娘に頼めない。地元の人をその役につけて欲しい。娘はまだ25歳だ」と言いました。すると、姉は「あなたが共生園の園長になったのも25歳よ。本人に訊いてみましょう」と(笑)。99%娘は引き受けないと思っていたのに、「運命だから行きます」と言ったのです。
  冗談めかして「パパ、私は日本人だから殺されてしまうかもしれないから、保険をかけてね」といって韓国に行きました。そして、私たちよりもっと純粋で新しい感覚で子供たちとプログラムを作り、園を発展させ、マスコミにも取り上げられて、既に5000人もの見学者が訪れました。木浦市長が「観光の名所になった」なんていうほどです。小渕首相も娘を励ましてくれて、園に梅の木を20本贈ってくれました。首相が倒れた時に、共生園の子供たちは千羽鶴を折って送りました。それを奥様が病室に飾ってくれて、亡くなった時には、棺に一緒に納めてくださったのです。
  今、娘は、姉の娘に園長職を託して、若いながら名誉園長となり、東京と木浦を行ったり来たりしながら後援活動をしています。施設をつくって守るのも大事、そして福祉人材づくり、福祉市民づくりも重要だと思っています。

中川 本当にそうですね。亡くなられたご両親も天国から応援し見守ってくださっていることでしょう。今日は長時間、貴重なお話を有り難うございました。

(2004年10月13日 大阪府堺市の「故郷の家」にて 構成◎須田玲子)



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