
2005年10月の対談

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| 中川 雅仁 |
相田 一人 さん |
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(なかがわ まさと)
1961年北海道生まれ。北海道大学工学部卒。(株)エス・エー・エス会長。全国各地で真氣光しんきこうと呼ばれる氣を通して意識改革に精力的に取り組んでいるほか、奈良県生駒市にて意識改革を目的にした合宿『真氣光研修講座』を開催し、好評を博している。著書に『こんな癒しがあった!』(文芸社)、新刊『氣で生きる力が湧いてくる』(ごま書房)などがある。 |
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(あいだ かずひと)
1955年栃木県足利市生まれ。相田みつをの長男。出版社勤務を経て且ァ今社を設立。平成8年東京銀座に「相田みつを美術館」を開館。平成15年東京国際フォーラムに美術館移転。現在「相田みつを美術館」館長。『いちずに一本道 いちずに一ッ事』『雨の日には…』『しあわせはいつも』『生きていてよかった』などの編集、監修に携わる。著書に『書 相田みつを』(文化出版局)『父 相田みつを』(角川文庫)などがある。 |
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第33回企画展 夏休み特集
「初めて出逢う相田みつを」
2006年7月11日(火)〜9月10日(日) |

■突然脳出血で父逝去、30代で後を…の共通点が
中川 先日、この相田さんの美術館内でダライ・ラマ法王生誕70年を祝し、平和を記念して砂曼荼羅が制作されたのですね。その様子を、本誌専属ライターの須田が取材させていただきました(と、本誌9月号をお渡しする)。
相田 昨年、国際フォーラムで龍村仁監督の映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』が上映されまして、その折に監督が『相田みつを美術館』を訪れてくださって、お目にかかりご縁ができました。
中川 龍村仁監督には、本誌のこの対談の欄に何度もご登場いただいています。弟さんの龍村修先生には、私共の真氣光研修講座の専任講師として開講当初から大変お世話になっております。
相田 そうでしたか。龍村監督から砂曼荼羅のお話がありまして、私共は個人美術館なので、そういう企画は初めての試みだったのですが。大勢の方々にご来場いただきまして、本当に良かったです。
中川 美術館は、以前は銀座にありましたよね。
相田 はい。父は自分の作品のための施設のようなものは建てなくても良いと言っておりました。「世の中に必要なものだったら、残っていくのだし、どんなに残そうと思っても、必要とされていないものだったら消えてしまうのだから」と。それで、私もはじめは考えていなかったのです。
でも、父の亡くなった後に、全国で遺作展をしましたら、見にいらしてくださった方々が皆さん、「常設の場所はどこですか」「どこに行けば、作品を見られるのですか」と訊ねられるのです。それで、そういう場所が必要かなと思うようになりまして。 郷里が栃木県足利市ですので、本来はそこがいいのでしょうが運営上のことを考えますと、やはり地の利を得ないと無理だろうと。谷間から発信しても高いところにぶつかってうまく伝わりません。それで、東京という高い所から情報を発信していこうと思ったわけです。銀座には画廊がたくさんありますから、私も幼い頃からよく父に連れられて銀座を訪れていました。そういうこともあり、銀座がいいかなと思いまして。開館したのは9年前です。 お蔭様で、たくさんの方にいらしていただいて、そこは300坪ほどでしたが、そのうちに手狭になりまして、どうしようかと考えていたのです。ちょうどそのときに、こちら(東京国際フォーラム)のお話があり一昨年に移転しました。ここは700坪ほどあります。
中川 お父様は、いつ亡くなられたのですか?
相田 91年12月です。ある日突然、脳内出血を起こしまして、67歳でした。書家は70代からとも言いますから、父はこれからというときに、しかも新しいアトリエの完成を目の前にして亡くなってしまいました。ですから、父の作品に「一生勉強 一生青春」とありますが、その通りの人生だったと言えるでしょう。私はこんなに早く父の死に遭うなどとは夢にも思いませんでした。私が36歳のときでした。
中川 そうだったのですか。私の父も95年12月に脳の血管が切れて亡くなりました。同じ年の3月にも倒れたのですが奇蹟的に復帰して、それまでもずっと氣の普及に努めていましたが、復帰してからの半年間は特に、「起こることには、すべて意味があるのだ」ということをしきりに言うようになりました。 今振り返ると、深い潜在意識でというのでしょうか、父は自分の死を知っていたのでは、とも思えるのです。そして、いい氣を取り入れながら意識を高めていくことの大切さを伝えて、59歳で逝ってしまいました。私は翌月に35歳になるときでしたから…何だか相田さんと似ていますね。
■山のように書いて生まれるたった一つの書
相田 そうでしたか。父は倒れて意識不明になり足利の病院の集中治療室に運ばれましたが、小康状態となったので、私は溜まっている仕事を片付けに東京に戻ったのです。ところが、連日、病院に詰めていましたのでその疲れもあったのでしょうか、渋谷駅の階段で足を踏み外して転げ落ちるというアクシデントにみまわれ、全身打撲、足を複雑骨折で救急車で搬送され、手術という事態となりました。 その3日後、父の容態が危ないと連絡を受け急いでタクシーで足利に向かいましたが、間に合いませんでした。既に父の病室は空っぽで…私はその隣の病室に入って半年入院しました。それまで、とても忙しい毎日でしたが、急にベッドの上でジッと寝ていなくてはならない生活になり、いろいろなことを考えざるを得なくなったんです。私は妹がおりますが、一人息子なので、やはり父の遺したものを伝えていきたいという思いがありました。
中川 足を骨折なさったことは大変でしたが、それによって図らずも今後のことをどうしたらいいか、じっくりと考えてみる時間が与えられたのですね。私も妹はいますが一人息子ですので、父のやってきたこと…父は夢を見てハイゲンキという氣の中継器をつくり、その氣を真氣光と名づけて、真氣光を実践する人たちを養成するセミナーを開催したりしてきたわけですが、それを私も継承し広めていこうと思ったのです。
相田 父は生前何冊かの作品集を著していますが、本を読んだ方の中には、色紙のようなものに、割合簡単にサラサラと書いてしまったような誤解をしている方もいらっしゃるのです。絵だったら、画集を見て評論を書く人はいないでしょう。現物と印刷物とは全く違いますから。書も墨のボリューム感や、かすれ、滲み、勢いなどは印刷物では消えてしまいます。
父は一つの作品を創るのに、何百、何千回も書いているのです。練習のための安い紙など使わず、その度ごとが真剣勝負ですから常に高い作品用の紙を使っていました。それが一晩で天井に届きそうなくらいに積みあがってしまって。その中で、あの独特な書体、平易な言葉が生み出されてきたのです。そういうことは、原作を見なければ分かりません。原作を見ないで、「書家・相田みつを」を語られるのはイヤだな、という気持ちがありました。
中川 そうですね。お書きになったものからは、それこそ氣が出ています。作品を創り上げているお父様のすべてが込められていて、だから、原作を見た人は、まさにその氣に触れることによって感動するのでしょう。
相田 父は、感動をとても大事にしていました。同じ言葉の書を千枚書いても、その中で1枚を選ぶとなると、結局最初の一枚目ということはよくありました。「たくさん書くと技術は上達するけれど、最初の感動は薄れてしまうこともある。最初が一番いいということを確認するためにも千枚書くことが必要なのだ」と。 また、「書は、その人の知性も教養も体調も、すべてが出てしまう。自分の裸をさらけ出すようなものだ」と言い、自分宛ての手紙を見て、この方は理科系の人だ、文科系だ、幾つくらいだ、太っている、痩せている…などと言うことがありました。後日ご本人が訪ねて来られると、本当に父の当てた通りの人なので驚いたものです。 また、父は一時期カルチャーセンターで写経を教えていたことがありましたが、あるとき若い女性の書いているのを見て、「ご家族のことで悩まれているのじゃないですか。字にそれが出ていますよ」と声をかけ、「その通りです」とびっくりされたこともあります。 父は10代の頃から書を学び、基本を勉強した上で、誰でも分かる「自分の言葉 自分の書」をつくってきたのです。
中川 私の父もよく、「小学生にも分かるように」と言っていました。お父様は、ご自分の裸をさらけ出そうとされて、見る人の同じ目線で作品を書かれた。上から高圧的にモノを言うのではなく。そういうところに、見る人が感動するのでしょう。心のはたらきは波動であり、氣ですから、共鳴しないと伝わりません。敷居が高いと共鳴しないのですね。
相田 高飛車に言えば、相手は身構えます。身構えると、伝わりません。すごく達筆でも何を書いてあるのか分からなければ、伝わりません。父の場合は、何かヘタな字みたいだけど、読んでみると「いいこと書いてあるな」と、言葉の内容に引き込まれます。よく、中学生、高校生が「親にこういうことを言われるとカチンとくるけれど、みつをさんに言われると素直にそうだな、って思います」などとアンケートの感想に書いていきます。
■短歌がベースのリズム感あるオリジナルの書
中川 書体も親しみやすいし、それに書かれているものに独特のリズム感のようなものがありますね。
相田 そうなのです。父は若い頃から短歌を学んでいました。20代30代は言葉を鍛えた時期と言っていいかもしれません。ベースに短歌のリズムがあるので、一回でも見たり聞いたりすると、スッと心の中に入ってくるのでしょう。 父は曹洞宗の道元禅師の『正法眼蔵』を30年以上も学んでいました。それででしょうか、よく「みつをさんは、お坊さんだったのですか」と訊かれることもあります。説法というのは高いところから教え諭しますが、父は、聞いてくださる人と同じ地平でものを言っています。独特の書体とリズム感のある言葉で。父はオリジナルというものをとても大事にしてきました。私は、表現がちょっとナンですが、オヤジの褌で相撲をとっているようなものですから…。
中川 そういうことなら、私もそうかもしれません(笑)。でも、相田さんもそういうお父様をずっと小さい頃から身近に見て接してこられた息子さんだからこそ、他の人にはできない、こういうお仕事をすることができているのでしょう。先日、美術館を拝見しましたが、夏休みということもあって若い人もたくさんいて賑わっていました。 私も、相田さんのつくられたオリジナリティのある美術館という場のエネルギーと、お父様の個性的な作品に宿っている氣に包まれて、いいひとときを過ごさせていただきました。映像や音声も取り入れて、いろいろな工夫があり、ユッタリとした空間の中、座ってアンケートを書くところなどもあって、たくさんの来場者の感想が貼ってありました。
相田 いろいろな美術館を巡ってみると、何て言いましょうか、ある種の感動疲れのようなものを感じてしまうところが多いんです。まして、当美術館は絵ではなく書ですから。サァ〜と見ているようでも、言葉を読んでいて、無意識に作品と自分が対話しているのですね。 言葉に接すると思いが高まりますから、一回、何かの形で吐き出すと、感動疲れが昇華されるのではないかと思いまして、感想を書いていただいたりしています。その書くスペースもユッタリと取りました。ここは展示スペース以上に、何もないスペースがあるのです。
中川 何もないスペースが生み出す、安らぎの氣が心を落ち着かせるということもあるでしょう。
相田 そうですね。感想を読むと、いろいろな人が「自分の心を映す鏡のようだ」というようなことを書いています。相田みつをと対話していくうちに、いつしか自分自身と対話している。そして座ってアンケートを書いていくうちに少し気持ちが落ち着く。そうすると、心がほぐれていくんですね。
■命の尊さを書いた作品と対話する若者たち
相田 父が言っていました。「ケガをしたとき、すぐに薬を塗って包帯を巻くやり方もあるけれど、よく洗って太陽に当てて治すやり方もある」と。心に悩みがあるときは、どこかでその悩みに直面すると治っていくのかもしれませんね。
中川 私共が毎月奈良で行っている合宿制のセミナーも、まさしくそうです。辛いことを前向きに見て、氣づいていき、元氣を取り戻していくことが大事だとお伝えしています。何だか相田さんのお話をうかがっていると、共通点がとても多いですね。
相田 この美術館に来ると必ず、そのとき、そのときの自分の心にピッタリする言葉が、一つ、二つ、見つかるという話をよく聞きます。その言葉を通して自分の心と向き合うのではないでしょうか。
中川 見ている人に、作品を通して何か語りかけてくるような、そんな感じがしますね。私も、美術館内をゆっくりと歩いてきて、お父様の戦死したお兄さんたちのことが書かれた作品の前で、グッときて、つい涙が出そうになってしまいました。
相田 父は大正13年生まれですから、ほとんど昭和の歩みと共に生きてきました。青春はもろに戦争時代です。10代のときに二人の仲の良かった兄たちを戦争で亡くしています。父はかろうじて戻ってこられましたが。それで、遺された自分はどう生きていったらいいのだろうかと、かなり純粋に悩んだのだと思います。いくつか追悼の詩も書いています。そして、拙くてもいいから、命の尊さを自分で書いていくことだということに辿り着いたのでしょう。
中川 ここを訪れる人たちが、そういう作品と対話するということは、とても意味あることですね。特に若い人たちが、命の尊さ、生きることの大事さを、作品を通して感じてくれているのは、素晴らしいことです。次回の企画展のチラシにある、この『うん』という作品もいいですね。仏像という古くて気位のある硬さと、この言葉の柔らかさ優しさがとても合っていて。
相田 チラシ制作してくださった方に、仏像の写真の上に配する作品は何が良いかと訊かれたときに、すぐに父の代表作である『うん』を思いつきました。父は仏像が好きでした。弥勒菩薩に見守られるように、書を書いていました。誰でもそうかもしれませんが、父にも、誰にも言えないような苦しみがあって、それを仏像に聞いてもらっていたのでしょう。父は「相手の立場になりきって、人の悩みを聞いてくれる人を観音様というんだ」と言っていました。 そういう意味で、昔は観音様みたいなお医者様がいらしたですね。お医者様が患者さんの訴えを親身になって聞いてくれると、心がとても楽になります。私は氣というものはよく分かりませんが、そういうことも中川さんがおっしゃる氣なのじゃないでしょうか。
中川 そう、そう。それこそ氣です。
相田 ところで、美術館というのはお客様につくっていただくのだと思うんですよ。美術館は、「空間の湯もみ」だな、と。草津の温泉などで長い板でお湯を皆で歌いながらかき混ぜている、あの「湯もみ」です。同じ温泉であって、湯もみをした後のお湯は柔らかく優しいんです。美術館も朝、開館したばかりの誰も居ないときと、たくさんのお客様が回遊したあとに夕方、閉館するときとは、全く違うのです。だから、美術館は、展示作品と建物だけではなく、空間をお客様につくっていただいている…そんな感じなのです。
中川 相田さんは、氣のことはよくお分かりにならないとおっしゃっていますが(笑)、もう、それこそ氣なのですよ。今日は、本当にお話をうかがいながら感動してしまいました。有り難うございました。 (2005年8月18日「相田みつを美術館」にて 構成◎須田玲子)
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