
2007年12月の対談

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| 中川 雅仁 |
鶴亀 彰さん |
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(なかがわ・まさと)
1961年北海道生まれ。北海道大学工学部卒。(株)エス・エー・エス会長。全国各地で真氣光(しんきこう)と呼ばれる氣を通して意識改革に精力的に取り組んでいるほか、意識改革を目的にした合宿『真氣光研修講座』を開催し、好評を博している。著書に『こんな癒しがあった!』(文芸社)、新刊『氣で生きる力が湧いてくる』(ごま書房)などがある。 |
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(つるかめ・あきら)
1941年鹿児島生まれ。鹿児島ラ・サール高校をへて、京都外国語大学卒業。1966年、旅行会社のアメリカ駐在員となる。以来、41年間アメリカで暮らす。現在、日本からアメリカやメキシコに進出する企業の現地における支援や、アメリカのハイテク・ベンチャー企業の日本市場進出を手伝う。現在はインターネットテレビ局を立ち上げ中。 |
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■奇跡的、感動的な出会いが連続して起こる
中川 とても感動的な本がありますよ、と紹介されたのが鶴亀さんの『日英蘭奇跡の出会い』(学研)でした。鶴亀さんのお父さんは、第二次世界大戦中、潜水艦の機関長をやっておられたんですよね。
終戦の一年前に、東南アジアで戦死されたわけですが、その父親がどう生きて、どんな亡くなり方をしたのか、その足跡を探す旅をして、そこで題名どおりの奇跡の出会いがあるという話ですね。
とてもすばらしい出会いの連続に感動しながら、一気に読んでしまいました。
鶴亀 ありがとうございます。中川会長がおっしゃるように、父の足跡を追ううち驚くような出会いが次々と起こりました。こんなことってあるのだろうかと、自分で体験しておきながら信じられないことの連続でした。
実は、今回、こうやって会長とお会いしているのも、私はすごく奇跡的なご縁だと思っているんです。と言いますのは、対談のご依頼を受けたときに、ハイゲンキマガジンを2冊送っていただきましたよね。そこに、会長とカルロス春日さんとの対談が出ていました。
実は、驚くなかれ、カルロス春日さんのお父さんとはずいぶんと昔からの知り合いなんです。
中川 えっ、本当ですか。驚いたなあ(笑)。鶴亀さんは長年、ロスにお住まいに
なっていて、カルロス春日さん親子はメキシコだし、いったい、どういう縁でのお知り合いなんですか?
鶴亀 私は、25歳のときに仕事でアメリカに渡りまして、2年ほどの予定だったのですが、どういうわけか41年もいることになってしまいました。
1979年に、一年間仕事を休みまして、中南米からヨーロッパ、東南アジアと旅行をしたことがありました。そのときに、メキシコにアパートを借りて一ヶ月滞在しました。そのときに、春日さんのお父さんと出会いました。
カルロス春日シニアは、アメリカ大陸に住む日系人の横のネットワークを作りたいと活動されていました。すばらしい方で、心から尊敬しています。だから、あの中川会長とカルロス春日ジュニアとの対談はとても懐かしい気持ちで読ませていただきました。
中川 そうでしたか。何のご縁かはわかりませんが、意味があって、こうやって今日、お話をさせていただいているんでしょうね。
ロスでは、どういうお仕事をされているんですか?
鶴亀 小さな会社ですが、『YUGOBI(融合美)』という会社を経営しています。日本とアメリカの融合、人間と自然の融合、作る人と買う人の融合とか、融合をテーマにした会社です。具体的には、日本の中小企業で作られたすぐれた商品とか地方の伝統工芸品をインターネットテレビを使ってマーケティングしていこうというものです。
中川 融合という言葉はいいですね。われわれも見える世界と見えない世界、物質世界と精神世界を融合しようとしているんだなと、融合という言葉を聞いて、ふっと心に落ちるものがありました。
■トラック島で、不思議な現象に遭遇した
中川 さて、鶴亀さんのお父さんのお話、奇跡の出会いのお話をお聞きかせください。
どういうことがきっかけで、お父さんのことを調べようとなさったのですか。まだ、最近のことですよね。
鶴亀 2003年からですね。私は還暦を過ぎ、ワイフは50代後半に差し掛かっていました。まだ仕事はしていましたが、これからの2人の老後のことを考えるためにしばらく仕事を休んで旅に出ようかということになりました。
それなら世界一周をしようかと話が盛り上がり、3月9日にロスを出発しました。3月10日が私の62回目の誕生日。ハワイでお祝いしようという計画を立てての出発でした。
ハワイでささやかなお祝いをした後、ミクロネシアのボナペへ行きました。地上最後の楽園と呼ばれている島です。その次に行ったのがトラック島でした。ここで、不思議なことが起こったんです。
断っておきますが、私はこのときには父を追い求めようなどと思っていたわけではありませんでしたし、手相や血液型、占いというものには興味ない、非常に現実的な左脳型の人間でしたから、不思議現象など信じる方ではありませんでした。
中川 私も同じでした。ご安心ください(笑)。
鶴亀 スコールがやんで、やし林の中の散歩に出かけた私は、少し立ち止まって海をながめていました。そしたら、急に一陣の風が私を包み、その瞬間、『60年以上も前に、この地に父も立ったことがある』という強い感覚に襲われました。視覚のようでもあり、聴覚のようでもあり、触覚のようでもあったけど、そうでもないという不思議な感覚です。魂に伝わる感覚でした。ほんの一瞬のことです。1秒の何分の1かの時間だと思います。
中川 うーん、なるほど。何かメッセージのようなものかもしれませんね。実際に、お父さんはトラック島へ来られていたんですか?
鶴亀 後からいろいろと調べたのですが、父がトラック島へ来たという確かな証拠はまだみつかっていません。
でも、トラック島というのは、日本海軍の本拠地だったし、父が機関長をつとめていた伊百六十六という潜水艦が近くの海域まで来ているという記録があることから、父がトラック島へ立ち寄った可能性は高いと思います。
■世界一周旅行を中断して戻ったときの奇跡
中川 その体験がきっかけでお父さんのことを調べようと思われたんですか?
鶴亀 ここからまた不思議な偶然が起こるんです。
グアムから日本に寄り、さらに上海、杭州、北京と旅を続けたところで、SARS(重症急性呼吸器症候群)騒ぎに巻き込まれ、その後の旅をあきらめてロスに帰ることにしました。予定した101日の旅は、46日で中断せざるを得なくなってしまったのです。
久しぶりに家へ帰ると、たくさんの郵便物がきていました。その一番底に、分厚い1通の封筒がありました。差出人は、平川進さんとありました。
中には、手紙と資料が入っていました。それが、何と、父の乗っていた潜水艦に関する資料だったのです。
中川 驚いたでしょう。何らかの意思を感じますね。平川さんという方には、潜水艦のことをいろいろと調べてくれるよう、依頼してあったのですか?
鶴亀 いやいや、そんなこと頼んでいません。平川さんとは、彼の住む柏市と私の事務所があるトーランス市とが姉妹都市であったことから、その交流の一環としてわが家を訪れていただいたというご縁でした。平川さんは、海軍兵学校の卒業生で太平洋戦争にも従軍されましたので、たまたま、制服姿の父の写真を見られて、そのときに、父のことを聞かれました。私は、父の名前と潜水艦に乗っていて戦死したことくらいしか答えられませんでした。実際、父のことは何も知りませんでしたから。
中川 そしたら、詳しく調べてくれたんですね。その手紙や資料が、鶴亀さんを世界一周旅行から呼び戻したようなものですよね。
鶴亀 そうなんです。平川さんの送ってくれた資料で、父が乗っていた潜水艦が伊百六十六という名前で、父の命日が戸籍に載っている7月22日ではなくて7月17日であること、それから戦死した場所がマラッカ海峡だったことを知りました。そんなことから、父のことがものすごく気になって、父について調べ始めました。もともと101日間の旅行を予定していたので、仕事も休みにするとお客さんに伝えてありましたから、時間はたっぷりとありました。これも、不思議な偶然と言えば言えると思います。
■父の気配を感じて、すごくうれしくなることも
中川 そして、お父さんが戦死したマラッカ海峡へもいかれたんでしたね。
鶴亀 父の潜水艦は、マラッカ海峡でイギリスの潜水艦によって撃沈されました。
その場所へ行ってブーゲンビリアの花をたむけたとき、ああ父はこの海底の泥の中に沈んでいるんだろうなと思ったら悲しくなってきました。そんなとき、ワイフが『見てごらん』と声をかけてくれました。私は顔を上げて、空と海を見ました。夕日が空と海を真っ赤に染めていました。
そのときに父親と戦友87人の声を聴いたんです。遠いところ来てくれてありがとう。ブーゲンビリアの花をありがとう。悲しんでいるようだけど、心配ないよ、私たちの魂は、この天上の黄金の輝ける平和な場所にいて、そこからみんなのしあわせを祈っている。これも、瞬時のことでした。
ワイフに言ったら、私は声ではなかったけど、そういうイメージを感じたと言っていました。
私の悲しい心は、その声によって消えてしまいました。
そんな体験があったから、戦争で父や兄弟を亡くした人に、愛する人々は今も洞窟や海の底にいるかもしれないけど、それは肉体レベルのものであって、魂はすばらしい輝ける場所にいるよと自信をもって言っています。
中川 すごい体験ですね。氣を受けているときに、霊的なものを映像で見たり、ふと感じたりすることがあります。宇宙と交信しているのではと思うこともあります。一種の瞑想ですね。
たぶん、鶴亀さんもそういう状態になっていたのではないでしょうかね。
鶴亀 足掛け5年、遺族の方々をマラッカ海峡にお連れしたりしています。そのご褒美に父親を感じさせてくれているのかと思うこともあります。
あるとき、フリーウェイを走っていて、ふと助手席に何か気配を感じました。親父だなって思いました。親父の愛情を感じてすごくうれしかったですね。
中川 私も、父のサポートを感じることがあります。父だけでなく、たくさんのご先祖様が、守ってくださっていると。そんなありがたい中で生きているんだなと考えると、がんばらなければと思うし、しあわせだなあとも感じますね。
■日英蘭、潜水艦で戦った3家族が出会い、涙する
中川 そして、鶴亀さんは、お父さんの潜水艦が沈めたオランダ潜水艦の乗組員の娘さんや、さらにはお父さんの潜水艦を沈めたイギリスの潜水艦の艦長と会われていますよね。
鶴亀 殺し合った3つの潜水艦の艦長と遺族が仲良くしているというのは奇跡かと思います。出会うことすらないでしょう。
中川 戦争だったとは言え、父親を殺した相手と会って、憎しみとか恨みとか、そのようなマイナスの感情はわき上がってきませんでしたか?
鶴亀 オランダでお会いしたカチャという女性は、私の父が沈没させた潜水艦の乗組員の娘さんでした。彼女のお父さんは戦死したとき25歳でした。新婚3ヵ月だったそうです。カチャは、そのとき母親のお腹の中にいました。
カチャから彼女の父親の写真を見せてもらったとき、どんな思いで彼が海に沈んでいったのか、その思いが脳裏に浮かんで涙が止まりませんでした。私の父親も、しばらく後、同じような思いをもって亡くなっていったんだろうと思います。
その後、父の潜水艦を沈めたイギリスのキング艦長とお会いすることになったのですが、その前に、私は彼が書いた手記を読む機会がありました。そこに、父の潜水艦に魚雷を撃ち込んだときの様子が詳しく書かれていました。
私は、何回も何回も読み返しました。
涙が止まりませんでした。
そのときには、2つの感情がわき上がってきました。
一つは、こういう貴重な資料を見つけてくれた方への感謝の気持ち、そしてもう一つが、敵ながらあっぱれという気持ちです。
新米の部下をひきいて、ドイツ軍と北極海、イタリア軍と地中海、そして、日本軍と太平洋で戦った勇気。当時マラッカ海峡は日本の陣地でした。そこで父の潜水艦を沈めたわけです。この勇気、統率力、忍耐力、決断力、このおじさんはすごいなという思いがありました。
まったく恨みがなかったというとウソになるかもしれませんが、怒りとか憎しみという感情は出てきませんでした。個人的な恨みをもつものではないという理性的なものもあったし、60年もたっているということもあったし、私は幼いころから怒りなんかを外へ出さないくせがついていたし、もろもろのことから、感情が表に出なかったということも考えられますが。
中川 マイナスの魂さんがたくさんあって、ねたみ、恨み、苦しみといったものが、ふとわれわれに影響を及ぼすんだと思います。
人間には、その影響を受けない理性があります。しかし、それが弱くなると、マイナスの影響を受けて、とんでもないことをやってしまう。イライラが高じたりすると、けんかになります。それがマイナスの氣だよと、私は言っています。
戦争の暗い歴史があって、そこからくるマイナスの氣が、現代にも影響を及ぼしていると思います。
こうしたマイナスの氣を、鶴亀さんの行動は浄化することにつながっているのではないでしょうか。
■恨みのベクトルを戦争や原爆に向ける
鶴亀 去年の父の命日には、キング艦長の住むアイルランドのお城に泊まりました。本当に親しくなって、親子みたいな感覚です。
この人が父と同じ時間と空間を共有したんだなあと思うと、間接的だけど父と触れられるような気持ちです。よくぞ生きてくれていたと感謝しています。
戦争で傷を受け、いまだに癒されないままの人がたくさんいます。南京だって従軍慰安婦だって、確かな歴史の事実を調べていくことは必要だけど、それで本当の解決になるのか? かかわった人たちやその遺族、親戚の人たちの傷は、それでは癒されません。
私の父を殺したアイルランドの人が、そしてオランダの潜水艦を沈めた側の私が涙することで、殺された側の人たちの気持ちが鎮められます。
同じように、現代の我々 日本人が、従軍慰安婦など戦争の傷を今も抱えている方々の話を聞いて涙することが大切だと思います。その人が亡くなって2代、3代にいってしまっては、なかなか癒すことができません。当事者で心が治らないと。
中川 本当に辛い歴史だったと思います。鶴亀さんのお父さんのように戦争で亡くなった人がたくさんいて、戦争で生き残った方々も高齢になり、多くの方が亡くなっていきました。その魂さんたちには、いろいろな思いがあるでしょう。中には、苦しみを抱えていて、助けを求めている人もいるかもしれません。
鶴亀さんがやっておられることは、そういう魂さんにも勇気を与えていると思います。
鶴亀 おととしは、オランダやアイルランドの方々を10日間、日本に招待して、観光をしました。
長崎の原爆資料館へ行きました。みなさん、泣いていました。こんなに原爆はひどいのか、日本人はこんなひどい目にあったのか。
自分の父親が戦争に殺された。母親が捕虜収容所に入れられた。そんな思いも、原爆の悲惨さを見たら、恨みがうすれていくと言うんです。日本とオランダが戦争をしたことではなくて、戦争や原爆に対する方向に争で生き残ったベクトルを向けないといけないと思うんですね。
次の本では、日本軍捕虜になって強制労働をさせられた人たち、真珠湾攻撃の生き残りの人たちと仲良くなって、ベクトルを対日本ではなくて対戦争に向けていった私達の物語をお伝えしようと思っているんです。
私は、昭和16年に生まれ、2歳で父親と別れ、太平洋戦争とともに生きてきました。太平洋戦争のふき掃除を極めてささやかながら私の出来る範囲でやってみたいと思っています。
中川 お父さんの思いが鶴亀さんをこういう方向に向かわせた気がします。
これからもご活躍を期待しています。
今日は、本当にありがとうございました。
(2007年9月26日 新宿ワシントンホテルにて 構成◎小原田泰久)
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